伯爵散文「セミ・スヰイト」 |
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四條河原町上ル、髙瀨川に沿ふて綠眩しき櫻が竝び、ハイカラなるカフエありぬ。 白いパラソルの下の陽射しが容赦なくアスハルトを燒き、 立ち昇りぬる蒸氣は、もはや攝氏二十九度を越えけむ。 視線のづうと先がゆらりと搖れ、蝉の騷ぎが幾重にも響きぬ。 ――アノ子は今日もゐるのかしらん？ じとりと汗が滲み、扉に掛けぬる指先は僅かに震へり。 カロン／＼…… しいんとしつる靜けさを破り、程良く熱されつ喧騷が店内に漏れ、 傍に立ちてゐぬる一人の女給がはたとこちらを見ゆ。 アタシの心はざわめき、胸が内側よりぎうと詰まりぬ。 この髙鳴りを気取られぬやう、懷に隱し仕舞ひ、澄ましぬる顏を保ちたり。 「いらつさい、どうぞ」 調子の低い聲は京訛りにて、眞白のナプロンをひらり、 輕やかに戲るゝモンシロ蝶のやうでありぬ。 「えゝ……珈琲をば」 落ち着きを拂ひて、丁寧に応えつ。 奧まりぬ二人席、柔らかなるビラウド張りの椅子に座りぬ。 アノ子の名はカフエにて、カヲリと呼ばれしを二、三度聞きたり。 ――嗚呼、なんと麗しい名であらうか。 固く閉ぢ結びぬる薄い唇に、顎から凛と黑い髮が切り揃へつ。 ちひちやい眼なるは、目尻がやゝ吊り上がりて、世の萬人を見下せる一瞥をくれたり。 稀に槇ましく綻びぬる顏を見せつ。 頬べたをば上気させつ、百日紅のやうに染め上げたるは、いと可愛いらしく、 その笑みの薄ら涼しさは、初夏の暑さに似合はずして、 靑いラムネの氷上に砂糖漬けのさくらんぼが置かれたる樣を思はせり。 その憎らしい兩の眼を硝子甁に收め、湯船に浮かべては毎夜一緖に寢たい。 濕りた亂れ髮に指をくる／＼絡め糺ひ、快樂に耽る歡びを敎へたる夢想、 禮贊の限りを盡くして、その嫋やかなる肢體に觸れたいと慾する淺ましさよ。 實に救ひ難けれど、斷じて、たゞの戀煩ひと云ふ譯であらぬ。 ――えゝ、さうぢやないわ。まう齡十六破瓜の處女にあらざれば。 アタシはそつと默りて俯き、目線をテエブルに送りぬ。 白く儚い陶磁器に珈琲が注がれ、香ばしい薰りが漂ひぬ。 アタシにはこの味を上手く判別出来ず、藥劑のごときメリケンのチヨコリツトと飮み込みつ。 半分ほどに減りたれば、町屋七號カリストに火を點し、ゆら／＼燻らせり。 アノ子を見ゆると、焦がれ焦がれ、焦りの中で、狹く痛みが疼き覺ゆ。 この祕めたる思ひは珈琲と一緖に飮み干しつ。 極力冷静を装ひ席を立てば、心中でアノ子に手を振り別れを告げ、いまだ暑い河原町へと戻りぬ。 新京極から寺町通へ、錦市場商店街にて買ひ物を濟ましつ。 所々で打ち水され、盥に赤や黑の金魚が泳ぎたるは、涼しげなり。 アタシの暮したるアパアトメントは流行の煉瓦造りなれど、どことなく野暮つたい。 左橫鄰の阿婆擦れは、隔日（月水金）の晝閒より安酒で醉ひ潰れ、若き男を招き入れては交尾が五月蠅い。 窗の外で蝉がヂツと啼き、スヰングキイルバアンのレカウドが幾度か廻りけむ。 暑さの所爲か意識が朦朧とし、ふらり／＼立ち上がりぬ。 洗面臺の剃刀を手首に當て、さらりと切る眞似を繰り返しつ。 ――かうして死ぬれば、アノ子は一秒くらひ氣を向けてくれるかしらん？ と戲言を拔かしぬる。 鏡に映りぬる仄かに嗤ふアタシと視線を交えつ。 ――アタシの精神は正常でありぬ。えゝ、正常なり。 無殘にも罐入りマルグリツトウヱハアスは崩れ割れてゐぬ。 いくらか日も落つ、夕の時刻なれば、アタシは階段を驅け下りつ。 ぎら／″＼の零八型ヂイゼルハアトの後部シイトに乘りて、烏丸御池より八條の宿に向かいぬ。 レイヂオではジヤズバラツドがトランペツトのソロに差し掛かりて、 紫、綠、黄、圓かに溢るゝ光が心地良い風と共に後ろの方へ流れて行きぬ。 「暑くなりぬれば、来週、先斗町の牀にでも」 顎髯を撫でつけつハンドルを取りて運轉しぬる男はクセノンアントンと云ふ僞名を使ひたり。 モデルを描きて藝術家だと嘯き、實際こそ素性の知れぬ人閒であれど、 アタシに優雅なる時間と矜持と耽溺を與えたる男でありぬ。 「……えゝ、さうしませう」 所詮、ヂレツタントなお遊びでありけり。 白み透けたるケミサウルとペチカウトに着替え、スイヽトのベツドに傾れつ。 男は温いビイルを口にしては上機嫌でゐて、熱の篭りぬる、やゝ眞劍な目で筆を持ちぬ。 ルウムサアビスのウヱイタアがアタシの橫にそつと珈琲を置きたり。 苦く澁みがあり、暗い味なるはアノ子の珈琲のそれとは全く異なることに落膽せり。 かやうなことでさへ、貴女を思ひ出しては、その切なさに死ぬればと思ふ。 アタシは薄情なくらひ白いシイツの上ではらりと涙しぬる。 脇の臺座に据ゑられつ花甁には白薔薇が豪奢に活けられぬ。 その純潔無垢なれば、缺落しつる感性に思ふところあり。 左の壁には寫眞のやうな無花果の繪畫が大仰に飾られり。 「グロスアルチヒ！ デカダンなり！」 かの光景を目の當たりにしつ、男はさらに上機嫌となりける。 「君には素質があれば、學會員の中にありても君の人氣が噂でありぬ」 男と云ふ生き物には些か纖細なる機微が足らざり。 古き棚のジヤカアド織機式ソヒスチケイチド球體關節オヽトマタの發條がキリ／＼緩みて、 グラヂエイソンブラスのシリンダシヤフトをかちりと彈き、右から三つ目のレトロマチク齒車が廻り始めつ。 カンツトカンツカンカンツ…… 傾きぬダブル・ダンプより穩し骨組機構が現れ、 變ロ短調のオルガウルが長二度から完全五度へ遷ひぬ。 ノクタアンがリフレインし、頭にありつ詩とクロスオヽヴアせり。 十ばかり數へては、基音を辿りぬ。 ――生きて歸るは二年坂、死して墮つるは百萬遍、待てど拾へど戻橋 深泥池へ沈めたる、たとへば、貴女を思へこそ、嵌りて散りなむ八坂の塔 いつものやうに蒸し暑い夜べでありけむ。 グラン・タアルタアルを過ぎぬる頃、祇園花見小路通にて、 車窗の左前に、アノ子の姿をちらりと捕らえぬる。 急ぎて車を停めさせば、「今日は、これにて」と強引に降りぬる。 男は銀無垢のトウルビヨン懷中時計をポケツトより取り出し、 「では、また来週に……」と云ひつれど、その言葉は耳に屆かず。 幾許かの紙幣を渡されつ、テイルランプを橫目で見送りぬ。 アノ子はどこに向かうのであらうか、家であるか、男の所か、氣が氣であらず。 募り募りし焦燥と嫉妬の情が相俟りて、臟腑がのた打ち廻り、卒倒寸前でありぬ。 幻に囚はれ、あらぬ夢想の果てに頽廢しつる懊惱がアタシの氣管を燒き切り、 息もまゝならぬ有樣で、ゐても立ちてもゐられず。 ひそりと後を付け、京都電氣鐵道の蹴上にて、「何用でありますかへ？」 と見咎められば、先走り、つひに思ひ傳へつ。 「お氣持は有難うもろふときますけど、氣持ち惡うございます」 アタシの心中を把握したる、低俗を見下せる瞳たり。 そこら邊に飛び廻る蟲を見ゆるかのやうな非情の表情でありぬ。 受け入れられず、それ分かりたることなれど、必死に乞ふ。 激情に驅られたるアタシは、アノ子を琵琶湖疏水に突き落とし、細い首を絞め崩したり。 髮や衿を掴みては幾度も幾度も水中に沒しぬ。 神聖が故に觸れてはならぬ禁忌を侵したる心境は、筆舌し難き甘美の極みでありぬ。 「厭！ 厭や！」 いつか朽ちぬるこの身なれば、遂げたき執念たり。もう後戻りは出来ざり。 「……カヲリ、カヲリ君、もつと頂戴な、アタシへの思ひをば！」 「許しておくれやす……、お母樣……」 苦悶と絶望に顏を歪め、アノ子の體はすんとも動かざりて、ぷかり浮かびぬ。 事切れたり。 ――アタシの精神は正常でありぬ。えゝ、正常なり。 冷たく震えぬる指先でアノ子の白き頬をしとりと撫でつ。 殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ 殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ 殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ、殺シヌ 嗚呼、叶はぬ願ひなりぬれど、あな憎しと運命を呪ふであらうか？ 然らば、こゝに死なむとす。最も狂ほしく甘い刹那の豫韻を失はぬうちに。 きらりと剃刀を喉元から右奧へ插したるを―― ――來世ではきつと愛してくださりますやう、願ひ申し上げます。 2016.5.31<初出> |
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