伯爵散文「緑が淵」




誰かが認めなければならなかった。
誰かが為さなければならなかった。
誰かが諦めなければならなかった。

実際はどうであったか?
全ての許しの下であったか?
私の介在する余地があったか?


「――いいえ」

力なく震える右の手のひらに収まった頭蓋骨に語りかける。
彼は応えない。物言わぬ髑髏はわずかに綻んだように見えた。



今日も私は死体をくべる。それはただの日課となっていた。
幾百もの骸を飲み込んできた炎は、少し小高く盛られた丘の上で、
朝も昼も、雨も風の日も消えることなく、揺らぎ続けていた。


灰ばかりの煤けた丘は土くれて乾いているが、裾野よりなだらかに瑞々しい草原が広がる。
柔らかな風に煌めく葉がそよぎ、所々に淡い色彩の花々がその愛らしい顔をのぞかせている。
青々とした清廉で爽やかな香りにかすかに溶け込んだ甘い薫りが、こちらまで届いてくる。

西の一端に枯れた大木と屋根のない古い井戸、朽ちかけた柵に慎ましい小屋が捉えられる。
その向こうには大小様々な木々の鬱蒼とした森がざわめき、草原を取り囲んでいる。

ちっぽけなこの丘から見渡せる光景が私の世界の全てだった。
それ以上はない、頭上にはただただ膨大な空が覆いかぶさり、
立ち上る一縷の不吉な灰煙を、重く昏い不気味な雲に吸い溶かしていた。


森の奥、さらにその奥には、緑が淵と呼ばれる場所がある。
正確にはよく分からない。誰かがそう教えてくれただけ。

淵は世界の果てだ。それより先は理の外。
きっとそこに私は存在し得ないだろう。
未来永劫、昨日も、明後日も、この箱庭に囚われの身。
不幸だ、可哀想だと、憐憫の情に自ら酔うこともあるが、
あまり思い悩む、というより、深く考えたこともなかった。
それは嘘だ。


「君をつれて、外の世界で海を見よう」
彼がいつか言った。そういう事もあるのか、とぼんやり思った。
海とはどんなものであるのか、たくさんの水がためられている、
あらゆる生物の母である、聞きかじった話から貧相な想像しかできない。

しかし、約束は果たされなかった。あり得なかった。外の世界などない。
彼は死んでしまった。私をたった一人にした。この小さな世界に一人。
淋しい私。ひとりぼっちの私。愛は指のすき間からすり抜け落ちた。


――私はこの手で彼を燃やした。
それから、週に一度の安息日を除き、毎日、新しい死体をくべ続けた。
これは神から許された行為である。いや、そうあるべきだ。
指示された、全てから、それは世界、美しいこと、それ以上。

彼と一緒に死ぬことができていたらならば、
主観的には、楽だろうか、幸せだろうか、何も考えることはない。
もし、世界で彼と二人っきりであったならば、
それでも、ただ、彼だけを愛したのか、考えることはない。
あり得ない話である。あり得なかった。意味などない。

――私の想いとは裏腹に、死への憧憬は日に日に募った。
魅入られる、魅入られる、魅入られても、元への取り返しはもう考えない。
飽くことなく繰り返される日々の中でも、燃えゆく死体は、それはもう綺麗だった。

産毛はすぐさま燃え散り、人体の境界である表皮が泡立ちパリパリと縮み反れ、
滲み熟む橙と白の斑の脂肪が溶ろけ落ち、適度に熱された肉が、
ギシュギシュ膨れ上がるゲル状となった包皮とせめぎ合う。
終いには骨と肉の隙間が癒着し、不均一に前衛的な黒へと炭化する。
それはあたかも、現世という煩わしい衣を脱ぎ捨て、二百強の骨々を晒し、
ひたすら、そこだけにある自我の存在を誇るようであった。

毎日、毎日、この恍惚の光景を見た。飽きることはない。
何度、何度、見ても美しい。視線をはずすことはない。

あらぬ方向へひしゃげた骨々はそのまま丘の上のほうに放りくべた。
こればかりは面倒な作業、私の愛しい骨たちはその中のただ一式だけ。
他のどれでもない、何の代わりもない、変わりなく燃え燻る骨の割れる音。

私はこれを仕事とした。そうではない。
繰り返し行われる作業を仕事という言葉として認識しているだけだ。


夜、私は一人、か細いランプに光を灯し、小屋の薄ら白いベッドで自問自答を続けた。
「いいえ、一人ではないわ」
彼の頭蓋骨を見つめ、言い訳のように何か言葉を取り繕おうとする。
虚ろに空いた眼孔の縁をぬるりと愛撫した。
死へと肉薄したときはどんな感触であったろうか。
どんな気持であったろうか、尋ねる様を想像する。
彼の思考を手繰るように読み取った。

湿った温度が伝わってくる。生温かく、どろどろしていて、甘臭い。
意識が逸れたとき、ふと隠されたとてつもなく恐ろしい感情。
手を伸ばせば触れられるだろうか? でも、私は気付かないふりをした。


かつて在ったであろう愛しい記憶は際限なく反芻される。


「君の髪は蜘蛛が紡ぎだす糸のようだ」
彼の指が私のしなやかな髪をかき分け、うなじを掠め、
爪さきが触れるか触れないか、うっすらと背骨の溝をなぞり、
頸椎一つ一つを執拗に愛でた。

私は彼の華奢な鎖骨を甘噛みする。
やせ細った彼の広い胸部は、心音を響かせ、肺の呼吸にあわせ肋骨が上下する。
深く歯を刺すと、心音はさらに大きく、肋骨の動きも激しくなった。

「痛みは君の認識を定着させるんだね」
そう、だから、私は鎖骨を噛み引き千切り、溢れ出る血液を啜り、肉を舐めた。

彼の艶かしい血管の膨らみあがった華奢な手から連なる尺骨、橈骨を削りこそぐ。

「君の乳房はハニーシュガーの薫りがする」
彼の細い唇が、乳輪の端を挟み、滑った舌先が乳首に触れた。

彼の吐息が腹部で熱く感じられた。

体勢を変え、私は彼の陰部に顔を埋める。
体格に似合わずとても逞しいそれを、愛でるようやさしく扱き、
裏筋から舌を這わせ、亀頭の付け根から噛み込んだ。
ほぼ断裂しかけ、たくさんの熱い血が噴出した。
もう一度深くくわえ込み、咀嚼し、喉に流し込んだ。

「ああ、ああ、君なんだね。愛しい君」
私の膣内からぬめった液体が滲み出そうになる。
私は頭骨を掴み上げ、まぶたを噛み削いだ。
「最後には君だけを見ていたい」
しっとりと円い眼球と対しざらざらの舌先で、彼の右眼球を浚った。
ああ、彼の頼る認識の一つ。それは私が独占している。
そのまま眼底まで差込み、ずるずるずる引き抜きいた。
意外と抵抗は強く視神経まで滑りだすまで、かなりの時間がかかっただろう。

そのころには私の味覚、いえ、触覚がだいぶ麻痺してきていた。
ああ、その耳も三半規管も駄目にしてあげた。
鼻もそぐように、何度も何度も噛んで引き千切れた。

「もう、君しか感じない。君だけだよ」
あいまいな発音で正確には聞き取れなかった。
私は嬉しくって、彼の肋骨の全てを噛み開いた。
歯だけでは難しかったので、爪が肉より乖離することも厭わず、
必死に骨の一つ一つ抉じ開け、彼の存在に届いた気がした
その中でも、ひときわ、激しく収縮を反復する赤い塊があった。

「君の中で僕は生き続けられるのかな?」
「ええ、そうなることよ」

その塊をどうにかして引きちぎり丸呑みにした。もう彼は私の中で生きている。
彼だったものは、おびただしい血しぶきを上げ、絶頂を迎えたように痙攣し、
半分も残っていない陰茎から鮮血混じりの精液がだらりと垂れた。

彼の言葉を何度も何度も再生する。
頭部を私の恥骨にあてがい、何度も達した。
そして、彼の細く艶やかな髪を撫でた。

次の瞬間には、彼だったものに彼を嘔吐した。
既に私の一部なのだ。慌てて掻き集め、再度嚥下する。
そのたびにまた吐いた。構わず再度、のどに押し込んだ。
正当な背徳行為に繰り返し耽った。

骨だけを残し、全てを私の一部に欲したが、叶わなかった。
赤黒いベットにはこの世にも美しい汚物と食べ残しが塗れていた。
まだ温もりを感じるその中で、疲れ果ててしまった私は安らかに眠った。


夢の話だ。そう、私の妄想。全て嘘だ。


「君は誰ですか?」
そんなこと言わないで。もう私は限界なのかもしれない。
彼はいずれ私を認識しなくなる、無償の愛など綺麗事だ。
世間体はそう望んだか? 私には無常の雨が吹き荒ぶ。


或る嵐の日、それはそれは凄まじい嵐の日、ついに落ちた。
誰の怒りに触れたというのか、罰であるというのか。
眼前を白く染め上げ、空間がひびいるような大きな振動が破裂した。

屋根の端から壁が圧倒的な力にひしがれ、くずおれる。
なぜ、このような仕打ちを受けなければならないのか。
私は狂ったような嵐の前に躍り出た。
焼け割れた大木が小屋に凭れ掛かり、燃え移っている。

ごうごうと私の髪を掻き回され、振り回され、飛ばされそうになる。
煽られた小屋は、ばらばらになって吹き飛んで行った。

もう何もかもが嫌になった。捨て去ってしまいたかった。
裸足でぬかるんだ地面を蹴り、うねる草々に絡め捕られながらも、森へ向かって駆けた。
丘があるだろう方へ、横目を遣る。酷く薙ぎられた雨粒で、遮られた。

緑が淵に辿り着くことができれば、何か変わるかもしれない。
言い表せない複雑な思いであったが、藁にでも縋りたかった。

低い枝のない木々の隙間から滑り込み、無我夢中で走った。
無数の重い枝葉に襲われ、何度も何度も転んだ。

時折、眩いばかりの閃光が闇の全てを暴く。
そのほんの一瞬、視界の端で何かがのっそり迫る。
中央ににじり寄り、近くに感じようかとすると、まばらに影が散った。

眩んだ闇に地鳴りが轟き、立つこともままならない。
恐怖と畏怖の根源を思い起こさせる。

眼前の景色が平面的な映像のように見える。
だんだんと現実感が希釈されてゆく。

私はどこにいるのか? 方向はあっているか? そもそもこれは現実なのか?
そうであるなら、在りもしない鬼を見てもおかしくもない、
私の思考は気違っていないか、判断することもできない。

それでも状況は変わらない。雷雨と嵐に猛る黒い森の最中は、
地獄を詰め合わせたこの世の終わりそのものだった。

茂みの暗闇に見えない魔物が潜んでいる。矢継ぎ早に私を責め立てるのだ。

「誰かが認めるべきである」
「誰かが為すべきである」
「誰かが諦めるべきである」

誰かとは誰であるべきなのか?
私か? 世界か? 彼か?
ひたすら孤独を愛するべきであるのか。

視認はでききないが、沼か何かに足を捕られ、身動きが取れなくなった。
足掻いているうちに、腰のあたりまで浸かってしまった。

「所詮、おまえには分からぬことだろうよ」
「あればあるだけの認識を以ってして罰と為す」
「何度も忠告した、淵はおまえの果てであると」

もはや、これは現実ではない。視界が偏り。体の感覚も遮断されつつある。
色褪せ、光を失い、奈落へ落ち、原理的に停止した。
虚構だ。嘘の世界。それは誰が何の為に構築した?

もうここは森の中ではなくなった。無限の暗闇の虚ろに沈んでいる。
さながら、自身の業の深さに嵌り込んだようであった。


来る日も来る日も、私は一体何を燃やしていたのか?
神に許された行為であるはずがなかった。

死体? そんなものは存在しなかった。彼だったもの以外には。
私は私の妄執の中で、存在し続けていた幾百人もの彼を火葬していた。
彼がそうしていたように。

紛うことなく、淵とは私の果てであったのだ。
その外に、私は存在することはできない。
私が創り上げた丘と草原の心象世界が私自身であるから。
では、現実の方に置き去りにされた私ではない私は廃人であろうか、狂人であろうか、
そんなことはどうでもいい。
意識もなく毎日、毎日、彼のために許しを乞うために、線香でも焚いていただろうか、
そんなことはもはやどうでもよかった。


生前の彼の病は、重篤性を増し、日に日に私を認識しづらくなっていった。
繰り返し、繰り返し、彼は彼と私を亡くし続けたのだ。
幾百日が過ぎた頃か、困惑、悲嘆、絶望、妄執に駆られ、認識が錯綜した。発狂したのだ。
わずかに残った私を彼に刻み、私は彼の一部を取り込み、私の中で永遠に殺した。
それでも、彼の死を受け入れられなかったのだ。死が認識されなかった。

全てが間違いだった。私が間違った。私が悪かった。私の過ち、罪である。
彼の最期を全うに看取り、受け入れなけばならなかった。しかし、不可能であった。

私が望んで、固執して、心の安寧を求めた居場所。
閉じこもり、外乱から守り続けた自意識。
崩壊する緑が淵の世界に、また、私一人が取り残された。

途絶えゆく意識の深淵に挟まった思考の片隅は、終に超越した。
世界は私以外と私を識別する術を失ってしまった。
ありとあらゆるものの境界が取り払われ、私は全てに流れ出した。全ては私だ。



冷たい緑色のリノリウムが広がる特別看守病棟、独房のような小さな部屋、薄ら白いベッド、
端に添えられた洗面所、鉄柵ではめごろした窓際には手折られた淡い花。
なにより、刺激の強い薬品臭が漂う。老朽化した柱が折れ倒れ、
錆で腐食された鉄格子の扉は変形、湾曲し、小さく開かれていた。

強く発光する回灯、けたたましい警告音、収監者のうめき声、奇声、怒声が耳をつんざく。
渾身の力で拘束を引きちぎりながら、可燃性らしい液体を振りまき、満身に浴び、
迫る看守たちを掻い潜って、キチガイのように暴れまわった挙句、外の世界へ逃走を試みるも、
窮まって外壁高所からの滑落、堅い、とても堅い灰色のコンクリートだった。
身体の大部分は外から内からの圧迫、打撲、粉砕により破壊された。

その後、最期の力を捻り出したのか、何かの思し召しなのか、焼香用の燐寸で、自身を火葬している。
……ように思われた。もう、認識する必要すらない。


彼の見たかった外の世界に海などは存在しない。全ては私だった。
嗚呼、我が愛しの君に代えられし命よ、全ては出鱈目だった。



2016.5.25<初出>


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