伯爵小説「序説概要」




 伯爵――起源は諸説ある。自然発生的にローマ帝国で体現したとか、百年戦争に突如、降臨したとか、とかく、真偽の程は未だ判明しておらず、その存在は神聖であるがゆえに、不可侵の憂いを湛えている。

「我は伯爵であるぞ」
 対位していた世界より爵位を手中に、グレートブリテンの地を根城とした。空遠く山々の望む、幽かに緑煙る湖畔から薔薇の園へ奥深く、人知の与り知らぬ、遥かなる地であった。薄霧に隠匿され、密やかに佇む、城とも屋敷ともつかぬ建造物は、昼に白く翳り、夜は黒を背に、陽より儚く月に澱む。なにより、悠久の年月を誇る古の業で構築された壁面に、蛇のごとく這う蔦には、怪しき虚ろを覚え、崩れつつある瓦礫の先を詳らかに夢想させる。
 鈍重に、且つ、甲高く軋み啼く扉の狭間より射す闇から、正面に相見える階段にへばりつく紅の絨毯が浮き上がる。よく磨かれた木製の手摺を頼りに、コツ、コツ、とくぐもった足音が静寂を際立たせる。その突き当り頭上に歪みなく掛けられた、ややくすんだ黄金の額に収まる絵画の中の人物は、驕奢ななりではあるが、肩より上が仄暗く認識できない。
 それより、右手の階段を抜け、異界への迷宮を思わせる長く延びた廊下には、不気味に青光りする鈍色の鉄甲冑が等間隔で几帳面に並び、燭台が映す影と共にゆるやかに、ときに忙しなく揺れている。奥へと歩みを進めると、気付かぬほど滑らかな遷移で徐々に昏く落ちて行く。最遠の間、軽やかに錠を打ち、扉を放つ乾いた音が響く、華やかにも侘しい虚無。そのほぼ中央に座する、血汐よりも荘厳なベルベットの椅子に太々しく沈む彼は、そう、伯爵である。

 日に二度の食事を摂る。近辺の野で狩られた獣の肉を焼き、彼以上に存在が不確かな従者が持ち込むパンを食す。冷たく暗い地下室に貯蔵された葡萄酒を飲み、山羊の乳から作られたチーズを摘まむ。豊かな秋には木の実を煎り、十分な肉を干し、寒く厳しい冬は篭り、薪で暖を取る。
 夕暮れには茶を片手に煩雑な公務を行い、晩には杯を片手に煌びやかな間へと招いた女たちと戯れる。脳震盪かと錯覚させる壮大な楽曲へ、大胆に、慎重に、大仰に、埋まるよう目線を外さず拍を踏む。幾度となく繰り返される耽美なる宵、そして、紫煙を一口、二口燻らせた後、心地よい疲労を浴び、陽が昇るより早く、夢見の悪い棺桶で浅い眠りに就く。甘美であり、つつましくある連綿とした日々の営みがそこにはあった。一方、然程拓けていない地で爪に火を灯す領民には、課される税が耐え難いほどに重いものであったことは想像に難くない。

「狭量とは美徳である」
 傲慢、怠惰、軽薄、放蕩、耽溺、ありとあらゆる人類の悪徳を原型として彼は此岸の存在として足り得ている。では、美徳とは何であるか? それは愚問であろう。それでも、爵位という逃れ得ぬ封建制から、王族と浅からぬ縁がある彼は、彼なりに陛下への絶対忠誠を誓い、敬意・敬愛を有していた。

 ドーヴァーを渡り、諸国への視察、外交も彼の職務であった。それが禍であったか、近隣諸国で起こった詐欺事件に関わったことが明るみに、糾弾を発端として、領民の蜂起が始まることとなる。それまで一部の者しか知り得なかった居城を突き止め、大挙して押し寄せた。彼は動かず、抵抗もしなかった。面妖ではあるが、真意がどうあったのか、知る術はない。
 物々しい銀の十字架へ磔に処された。様々な鋭利な長物を一斉に体中に刺し込まれ、宛ら無残に立て掛けられた針山の様を呈していた。悍ましい穴という穴からどす黒い滑りが排出され、串刺し伯の孤高なる意識は微睡み始めた。
 館には無慈悲な炎がくべられ、三日三晩休むことなく辺り一帯を照らし続けた。財宝や調度品は粗方奪われ、従者達は一様に去った。残ったものは、煤けた煉瓦、焦げた木片、何かの金属片、気が遠くなるような寂寥に噎せる灰燼ばかりであった。それらは10数年を経、自然と同一化するように廃墟と生り、近づこうとする者は誰一人いなくなった。

 芙蓉の花托と化し、業火に焼かれ、緩慢なる最期を迎えたが、黄昏の彼岸を彷徨ってなお、不死であった。弔いもなく幾重にも圧し掛かる瓦礫の下、歴史上三度の受肉を遂げた。冥府からの帰還を果たしたのだ。それでも、民草を恨み、呪うことはなかった。陛下への忠誠も変わりなく彼の骨子を支えている。身辺の整理を行うと同時に自らの痕跡を払拭し、墓標にも似たこの再生の地を離れた。
 栄華極まる社交の場を制し、莫大な財を成す必要に迫られた彼は、当時、万国博覧会で賑わいを見せたロンドンに拠点を移した。黒煙舞い上がる最中、開業して間もないキングス・クロス駅に降り立つ――時は産業革命が幕を引くその前夜である。
「皆の者、我に傅くが良い」



2016.1.14<初出>


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