伯爵散文「侯爵夫人博士女史の甘い恋と生活」




今日もチェルムスフォードに快い朝日が昇る。
ここ、侯爵家エセックス機関城にも目覚めの時を迎えた紳士がいた。

「うわ! ぐ! ううう、助けて!」
久しぶりの休暇で昨晩から機関城に戻っている侯爵であった。
機構組み込みベッドに狂ったように何度も折り畳まれ、襤褸雑巾のごとし。

「すっかり忘れていた。そう言えば、朝の運動を兼ねてこんな設定にしていたな」

「どうなさいました? 大丈夫でございますか、坊っちゃ……旦那様!
 仰ってくだされば、ご起床、お伝え申し上げましたのに。
 あ、ごほん、ご無沙汰しております、私は当侯爵家の執事でございます」
侯爵の寝室にノックもせず、飛んで入った爺。
皴一つないダークスーツに、撫で付けた髪も髭の手入れも朝から完璧で、
急いで駆け付けたのかは不明だが、紅茶一式を携えている。

「もう僕は大人の紳士なんだ、自分で出来るよ」
「紳士はあのような変な声は出しませんぞ。爺は情けのうございます。
 先代も草葉の陰で、さぞ、お嘆きになっておられるでしょう」
「大袈裟な、と言うか、ご隠居されただけで、まだご存命だよ!」

「あ、今、申し忘れておりました、私は当侯爵家の執事でございます」
「忘れてないから、2回目だよ!……ああ、お茶をいただくね」
「ごほん、ええ、本日のブレックファストは私がブレンド致しました。
 窯はウェッジウッド、銘をアストバリ、そして、私は当侯爵家の執事でございます」


侯爵は圧縮機で糊の効かせた真白のシャツに袖を通し、ダークオリーブの三つ揃えで極めた。
祖父の形見である銀無垢ハンタケースの懐中時計と巻き鍵をベストの左右に仕舞い、
アルバートチェーンのTバーを下から二番目のボタンホールに通した。
やや濃い茶を含んだ金髪は、乱れたまま手櫛で掻き上げただけである。

そして、侯爵は昇降機で2階に降り立ち、颯爽と第1常用食堂へ朝食に向かう。
久しぶりに会う博士女史のことを思うと足取りが軽く弾んだ。

食堂では既に博士女史が不機嫌そうな無表情で席に付いていた。
「やあ、おはよう!そして、ただいま! 今日も麗しいね、スウィートハート!」
「あら、お帰りなさいませ。朝からたるいわ、すかぽんたん」
「そうか、僕も仕事続きで疲れててね。やっと休みが取れたよ」
「犬ころみたいに働いて、転太のように眠った訳ね」
「でも、家に帰って君を見ると、朝食みたいに完璧だって思えるんだ」
「何が完璧かしら、この駄犬! バカ犬め!」
「……寂しい思いをさせて申し訳ない、僕の可愛い博士女史」
「べ、別に寂しくなんて、なかったですわ! たまに察し良くなるのはお止しなさいよ!」

長テーブルの端と端とで対面に座る二人に朝食が運ばれる。
2人は祈りを捧げ、静かに食事を始めた。

「そう言えば、トルコの外交親王殿下に片言の面白外国人を演じさせたんだって?
 まあ、大変お喜びになったそうだから、問題には発展しなかったけど」
「お小言なんか聞きたくありませんわ!」
「貿易条約に於ける外交摩擦は穏やかになったらしい。流石だよ、僕の可愛い博士女史!」
「あら、そうよ、この天才的な私の、そう、この私の完璧な計画だったもの」
「よ! 天才、鬼才、火事、親父!」

幾分か、扱い方の勘を取り戻した侯爵は、食後の紅茶を嗜みながら提案した。
「ところで、この後、一緒に散歩しないかい?」
「貴方と? 今更、恋人みたいにですって? 冗談は犬だけにして頂戴」
「まあまあ、鉄鋼装甲艦の機関部設計の仕上げについて君に相談したくってね」
「それなら、良いですわよ、効率補正箇所と計算誤差による強度不足の欠陥箇所を指摘してあげるわ」
「頼もしい限りだよ、僕の可愛い博士女史」

「旦那様、馬車の手配は致しました」
モーニングも板に付いた黒髪眩しい城内別当が進言した。
「いや、結構、今日は歩きたいんだ。僕の杖と帽子を持って来て呉れ給え」
「畏まりました、旦那様」

「私はお仕度をして参りますの、少々お持ちいただけるかしら?」
「ああ、何日でも待つよ!」


侯爵の特注ステッキは細めの黒檀で、握は銀の逆さ錨となっている。
絹の黒艶滑らかなトップハットを頭に乗せ、愛用のステッキを小脇に挟み、
第2居住塔1階の玄関応接間で博士女史を待った。

かちりと龍頭を押し、蓋を開けて、滑らかに進む秒針を見つめた。
少し大振りなムーヴメントには、トゥールビヨン 、ミニッツリピータ、他、様々な仕掛が施されている。
この機関城の発案と初期機構を設計した、侯爵の祖父が時計職人と片手間に製作したもので、
機能美、機構美、装飾美、どれをとっても非の打ち所がなく、つい、見とれてしまう。

機械生物、時計結晶、歯車の絵画、機構の粋、帝国の心臓、
手乗り機関城、老いぼれの暇潰し、などと色々な二つ名のある、
微に入り細を穿つ、不可知の領域にある圧倒的な技術を前にして、
新進機関ばかりに寄り、骨董機構はまだまだ未熟な侯爵から溜息が漏れる。


やがて、幾つもの丸めた硫酸紙を抱えた博士女史が小走りで駆け寄って来た。
「あら、そのお爺様の時計、私がオーバーホールして差し上げてよ」
「分解したいだけじゃないか! まあいつかね、君にお願いするよ」

「それで、ここの隔壁を断熱するとですわね、0.15%の効率補正が見込めるかしら」
「それはすごい! 君にとっては補正なんだろうけど、大幅上昇だよ」
「こっちはですわね、精度修正後、解析演算塔で再計算した表ですの」
「おお、やはり機関城じゃないとここまでは……まあ、これはちょっと置いて行こうか」
「まあ、図面も表もなしに議論出来ないですわ!」
「君なら頭の中で正確な組立すら簡単さ。僕もちょっとぐらいなら」
「あら、犬の知能水準に合わせただけかしら! さあ、お散歩に出して差し上げるわ!」
「あ、ちょっと、待って」

陽は4半分ほど昇り、雲は薄く疎らに、トルコ石色の空が温かな午前の日和であった。
庭園は新緑から緑へ溢れ、皐月の生け垣が綺麗に剪定されていた。

小道の中ほどで、鬚を蓄え、ツイードを合わせた大男が掃除をしている。
侯爵はステッキを脇に抱え、ハットの鍔を軽く摘まんだ。
「熊爺、おはよう! 精が出るね」
小さな羽を挟んだ中折れ坊を胸に、庭師が折り目正しく、辞儀を返す。
「旦那様、博士女史様、おはようございます! お出掛けですか?」
「ああ、ちょっと散歩に出るだけだよ」
「仲が良ろしくて、羨ましい限りです。お気を付けて」
「ありがとう、行ってくるね」
「いやだわ、犬の散歩ですことよ!」
庭師は頷きながら、笑顔で掃除を再開した。


「歩くと機城門まで結構あるね、ちょっとそこで休もうか」
「あら、お小水かしら?」
2人は城内運搬用人工河川岸畔の長椅子に並んで腰掛けた。
そのとき、侯爵は博士女史の冷酷な瞳をしっかりと見据えた。

「君に渡したいプレゼントがあるんだ」
「まあ、何かしら?」

「じゃん! 金の猫じゃらしだよ、先っぽは白兎の毛なんだ!」
「はあ、犬の分際で猫とか兎とかちゃんちゃらかしら」

「今日は何の日か分かるかい?」
「馬鹿にしないで頂戴! 子豚、じゃなくって、陛下生誕49周年だわ」

「……そうだね、僕たちの結婚記念日だよ」
「何ですのそれ? 熱効率高いの?」
博士女史は金の猫じゃらしを侯爵の眼前でぴょこぴょこと遊ばせ始めた。
「それとね、僕が君に愛を告白した日でもある。ああ、懐かしいな……」



――以下、過去話。

ケンブリッジ大学、機関研究科、研究室。
当時、侯爵は卒業研究の海上蒸気運用論の実験を毎日遅くまで行っていた。
そこに毎日のように通う、うら若き科学哲学科の娘、博士女史。

「こんばんは、お嬢さん、今日も麗しい」
「お嬢さん、ではなくって、博士女史とお呼びなさい、ワン候」
「はは、僕の歳でもまだ博士じゃないよ、志は買うけどね」

「私、機関研究科に転科して飛び級で博士号を取ることにしましたわ」
「ほんとに! 前々からの君の希望が叶って僕も嬉しいよ!」
「お父様を説き伏せるのが大変だったかしら。でも、私、機関が好きなの」
「そうか、君の才は国宝級だし、やはり機関は最高だよな!」

二人はエセックスカウンティで育ち、造船と学者の家として代々親交があったため、
幼少の頃からの知り合い、つまり、幼馴染と言える関係であった。
家柄差を越え、数学、化学、物理、工学と、お互いに高め、称え、磨きあった仲である。


「僕は無事、爵位と家業を正式に継ぐことになったよ」
「それは、目出度いですわね」

「それで、ね、君に打ち明けたいことがあるんだ」
「あら、何かしら?」

散々長考したあげく、意を決して、侯爵は左胸を数回強く叩き、奮い立てた。
まさに今、意を決しなければ、この機会は永遠に失われてしまうだろう。

「ぼ、僕はっ!」
「ええ」

「僕は、君のっ!」
「君の?」

「君の膣内に射精したい!」

暫し、静寂。安全弁から噴き出す蒸気音しか聞こえない。

博士女史は侯爵のことを、良き理解者、仮に伴侶となる存在と思ったとしても、今までトキメキはなかった。
恋愛沙汰に疎かった博士女史は、このとき、初めて男に愛されるロマンスを感じたのかも知れない。
下世話ではあるが、自分の股座に男が割って入って、体内に異物を挿し込まれる想定はしていなかった。
博士女史はそれを現実のものとして想像すると、生まれて初めて、胸の奥から、赤い実が弾けた。

「今、ここで?」

「え? ああ、違うんだ。そうだね、分かり辛いか……、
 君と結婚して、男女の仲に成って、家庭を作って、一緒に暮らしたいんだ!」
「何ですのそれ? 熱効率高いの?」
「高い! 早くて、君が卒業する2年後……くらい、には」
「意気地なしの腰抜け雄鶏、いえ、犬ころかしら」

侯爵は煮え滾る臓腑を空焚きまで燃やし尽くす思いで、縋り付く。
「君のことを愛しているんだ! 永遠に誓う!」
「私のこの身を侯爵夫人の名で永遠に縛ると言うことですの?」
「いや、僕のこと嫌いになったら、いつでも出て行って良いよ」
「すかぽんたん! 乙女心を全然分かってなくてよ」
「何か、申し訳ない……」

「永遠とか無限とか極限に発散とか、軽々しく口にしないで!
 効率100%の第二種永久機関でも公表なさったら、考えても良くってよ」
「君となら、永久機関だって……難しいか」

かぐや姫に難題を提示された皇子のごとし侯爵、拒否前提の課題婚に項垂れるしかなかった。

「こちらはすんなり簡単ですけど、貴方はそうも行かないのでしょうね」
「え? 君は簡単に? そんな、ことが……可能? いや、理論的に……」
「婚礼の段取りはさっさと済ませて頂戴。そして、早く私の膣内に射精なさってはいかがかしら?」

一転、感激の余り、発狂寸前の侯爵、バルブをスパナで乱打したい衝動を抑えるほど歓喜した。
しかし、皮肉も分からず、額面通りから更に外して、調子に乗った。
「君の可愛い笑顔、じゃなかった、真顔を見てたら直ぐに射精しちゃうよ」
「……貴方、本当に、勘違いするのもさせるのも天才的ね」
「いやあ、それほどでも」
「真に受けすぎって言うのよ! この駄犬! バカ犬め!」

「お嬢さんの膣内で射精……、お嬢さんの膣内で射精……」
哀れ侯爵、初夜まで毎晩、博士女史の夢に身悶えることは明白である。


「そうね、犬を可愛がれば、お洋服は汚れるものかしら」

博士女史は音もなく窓辺に向かって行き、ややくぐもった声で囁く。
「一度しか言わないから、心してお聞きなさい」

憂いと慈しみを湛え、煙と蒸気で霧霞んだ月夜の下、振り返る。
「私が侯爵夫人に成っても、膣内で射精されても、母と成っても、歳を取っても、
 いつか、死ぬその時まで、きっと博士女史と呼んで愛でてくださいませ、私の可愛い旦那様」



2018.3.7<初出>


戻る